staging
YAMAP / ヤマップ
画像

山トレの後のラーメンは格別だ😋~鬼ノ城西門展望~の写真

同じ道を戻り、改めて、ゆっくり景色を楽しむのだそうだ😃💡

この写真を投稿したユーザー

KAKKY
ID: 3266189

とにかく挑戦するぞ(心の声A)ただし、身の丈を超えないよう自重せよ(心の声B)

この写真を含む活動日記

写真36
もらったドーモ23
03:45
8.2 km
463 m

山トレの後のラーメンは格別だ😋~鬼ノ城西門展望~

鬼ノ城(鬼城山)(岡山)

2024.09.18 (水)日帰り

KAKKY
KAKKY

地元の山を大切にしなくては、そういう思いが沸き上がり、今日は年休を取り、クラブのトレーニング山行に行ってきた。 今週の日曜日、小鳥の森アルプスにしてやられたからかもしれない(⌒0⌒)/~~ 鬼ノ城山、大体の輪郭は頭に入ったので、今度は、ずいーっと廻ってみよう🏔⛰️🏔⛰️ きつい山を頑張って歩くことで、今日のような山行をリラックスして楽しむことができるようになり、山に行けば行くほど、思いがけない発見がある😎 山に通い、山飯をがっついているにも関わらず、体重は1年で5kg減り、主治医からは、これ以上、体重を落とす必要は全くありませんと言われる始末だ m(__)m それにしても、山行の後のラーメンが底なしに旨い😋 言いたいことは、結局、それか(笑) m(__)mm(__)mm(__)mm(__)mm(__)mm(__)m ※白村江の戦い (これを理解してないと、 鬼ノ城の建設の意味が理解できません。もし興味があれば、お読み下さい) 660年に百済は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされました。当時の朝鮮半島情勢は、密かに同盟を結んだ百済・「高句麗」(こうくり)と新羅が対立。唐は、新羅を後ろ盾にして朝鮮半島の支配を目論む状況でした。その手始めとして、唐は新羅を従えて百済に武力侵攻。そこには、高句麗への武力侵攻に向けて、障害を除去する狙いがあったのです。 滅亡した百済が頼ったのが倭。当時、倭には百済の王子「余豊璋」(よほうしょう)が在住するなど、両国間は密接な関係にあり、百済の遺臣から救援要請が発せられたのでした。 百済の遺臣・鬼室福信からの救援要請を受け、出征の決断を下した斉明天皇の動きは迅速でした。都を発った天皇は、自ら兵を率いて難波津(なにわづ)から海路で九州へ。 しかし、661年(斉明7年)斉明天皇は、出征を目前にして、九州・「朝倉宮」(あさくらのみや)で息を引き取ってしまいます。斉明天皇の死を受け、息子・中大兄皇子がその遺志を継いで倭軍の大将に就任。倭軍は3つの部隊に分かれて朝鮮半島に向かいました。主力軍兵士の数は約2万7,000人。有史以来、わが国初となる外征における戦いの火ぶたが切られました。 唐の成立から滅亡までが記述されている中国の歴史書「旧唐書」(くとうじょ)には、白村江の戦いについて、こんな記述があります。「劉仁軌(りゅうじんき)は倭兵と白村江で遭遇、4戦する内に倭軍の船400隻を焼き、煙は天にみなぎり、海水は倭兵の血で赤く染まり」。 すなわち、唐水軍を率いる劉仁軌と4度交戦した倭軍の400隻の船は炎上しただけでなく、戦場となった海域は倭軍の兵士が流した血で真っ赤に染まったと言うのです。 描かれている戦場の光景は、凄惨そのものの地獄絵図。旧唐書における描写は、唐側から白村江の戦いを記録した物であり、唐側に立った記述であることを差し引く必要はありますが、倭軍が壊滅的な打撃を受けた状況を読み取ることができます。 倭は、国家存亡の危機に立たされていました。戦争において、敗戦国が戦勝国による侵略の危険にさらされることは、時代や洋の東西を問いません。すなわち、負けた瞬間から倭は唐による侵略の危険にさらされることになったのです。当時の国力の差にかんがみると、仮に唐が侵略してきた場合には、国の主権そのものが脅かされかねない状況。倭における事実上の国家統治者だった中大兄皇子は、まず防御を固める方針を打ち出します。 具体的には、海を隔てて朝鮮半島や大陸と向かい合っている博多湾を中心とした九州沿岸に「水城」(みずき)を築き、その上で「防人」(さきもり)を配置。24時間態勢で唐の侵攻に備えたのです。さらに、大宰府(だざいふ)を守るため、朝鮮式の城である「大野城」(おおのじょう)を建設。国家存亡の危機という非常事態ゆえ、やむを得ない面もありましたが、築城と警備兵の配置は人民に対し、経済的・精神的に大きな負担を強いるものであったことは間違いありません。 さらに、大野城だけではなく、西日本各地に鬼ノ城のような対唐軍事施設が建設されたという歴史が背景をなしています。 中国との因縁は、この頃に端を発しているのかもしれません。